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泣こうが喚こうが死なない限り明日はやって来る。もう引き返せない、遠いあの日――そんな≪無頼派≫な劇場へようそこ。


プロフィール

ブライアン

  • Author:ブライアン
  • 年齢:34歳
    性別:男
    身長:171cm 体重:63kg
    住所:神戸市
    職業:製造・物流
    主義:捲土重来を期す。
    映画:「東映実録やくざ」
    漫画:「ゴルゴ13」
    音楽:「矢沢永吉」
    一言:お前は防弾チョッキでも着て、じ~っとしとれば良かたい。



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『仁義なき戦い・代理戦争』
「時は流れて昭和三十八年。
日本は安保闘争、岸内閣瓦解、浅沼委員長刺殺事件などの騒然たる世相を見せていたが、世界各地でもまた、新しい抗争の炎が燃え上がっていた。
これらの戦闘には、すべて米ソ両大国の思惑が関わっていたため、
世間はいつしかこの局地戦を代理戦争と呼び始めた。
そして戦後の混乱期をようやく脱した日本のやくざ社会においても、
そうした傾向が現れ始めたのである」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――

仁義なき戦い・ 代理戦争 (1973年)


「こうなりゃ五寸じゃけぇ、山守先頭にいつでも
殺(と)りに来えやッ!」



出演:菅原文太・小林旭・成田三樹夫・金子信雄・田中邦衛
   梅宮辰夫
(ほか)

■視聴する⇒映画「仁義なき戦い・代理戦争」予告篇 

昭和三十五年、広島の覇権を賭けた大友組と血みどろの抗争に打ち勝ち、広島最大の暴力団となった村岡組。広能昌三(菅原文太)は村岡組やその系列組織の打本組組長・打本昇などとの交流を深めていた。そして「広能組」の看板を掲げ、呉でスクラップの警備を生業とする、小さくもささやかな組の親分となっていた。
そんなある日、村岡組の実力者、杉原文雄が広島の市街地で白昼堂々、一人の
チンピラに射殺
された。博打のトラブルを巡っての事件であった。
杉原は病気療養中の村岡組組長・村岡常夫の跡目として有力視されていたために、杉原の突然の死は、村岡組内部のパワーバランスを大きく狂わせる事態に発展した。
 杉原の兄弟分で打本組を率いる打本昇、村岡組幹部・武田明(小林旭)、同組幹部・松永弘(成田三樹夫)、そしてタイミングよく出所してきた村岡組の暴れん坊・江田省一、さらには呉・山守組組長・
山守義雄(金子信雄)。それぞれが、それぞれの思惑を腹に行動を開始した。
広能は山守組から袂を別っていたが、呉の長老・大久保憲一親分の仲立ちもあって、山守組へ復帰したのである。

 打本は広能昌三、武田、松永、江田と兄弟盃を交わし、足場を固めた。そしてさらに、西日本広域暴力団・明石組の幹部、岩井信一(梅宮辰夫)と親しい広能を通して、明石組組長・明石辰男(丹波哲郎)の盃を受けた。
 が、それが村岡常夫の心証を悪くし、村岡組の跡目は呉の山守義雄が継承。山守は名実共に広島最大の大親分となったのである。
 わが世の春を迎えた山守であったが、気に入らないのが西日本広域組織・明石組の傘下団体となり、はっきりと山守組への対抗意識を表している打本昇あった。
 そこで山守は武田明の力を経て、明石組とライバル関係にあたる神戸・神和会と兄弟盃を交わした。
さらに、打本と兄弟分である広能を山守組から破門し、真っ向から打本組への対決姿勢を示した。
広能は戦後18年間も付き合ってきた山守義雄親分を今度は敵に回して、打本と組んで山守組との戦いに挑んだ。
これにより、またまた広島は真っ二つとなって抗争の火蓋が斬って落されることになったのだ。ここに「明石組系・打本組&広能組」 対 「神和会系・山守組」という
代理戦争との図式が成り立ち、双方の間で激烈な抗争が展開されていった・・・・!山守組が明石組系打本組中国支部という事務所に襲撃をしかけ、路上と二階とで銃撃戦を繰り広げたのを日切りに、この抗争事件は広島から拡大して中国地方を二分する泥沼の様相になるのであった。
 戦後直後から対立抗争・内部抗争を呈してきた広島の中小組織が今度は関西の大組織までをも巻き込んで、抗争を繰り広げることになったのだ。
「弱い組織が強い組織に依存して、組の繁栄を維持する」というのが、この「代理戦争」のテーマである。

 以後、この抗争事件は次回作に持ち込まれ、打本・広能組と山守組の抗争はさらにヒートアップする。広島を血で染めた一大抗争事件へと発展していき、それはついに「頂上作戦」という、組長・幹部クラスを根こそぎ検挙していく警察の暴力団壊滅運動を激化させる結果となった。
 広島やくざ戦争の一大クライマックスに乞うご期待!

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『仁義なき戦い・広島死闘篇』
「昭和二〇年。敗戦によって戦場から復員した広能昌三ら、一団の若者たちは、鬱屈した青春を暴力に叩きつけて戦後の荒廃に挑み、
山守義雄を親分として広島県呉市に一家を創立した。
老獪な山守の才覚と広能たちの命を賭けた闘いによって、山守組は一大王国を築いていったが、権力の拡大につれて内部の分裂が始まり、山守の画策に乗ぜられた幹部組員たちは相次ぐ仲間内の抗争によって次々と倒れ、広能も山守に盃を返して袂を分かった。
 一方、広島市では村岡常夫の率いる村岡組が強大な勢威を誇っていた、そしてその傘の下で、新しい戦後の暴力の世代が育ちつつあった。時は昭和二十五年。朝鮮動乱の時期にさかのぼる。」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


仁義なき戦い・ 広島死闘篇


「ワシを生かしといたら、オドレら後で一匹ずつブチ殺してくれちゃるんど・・!!」

出演:菅原文太・北大路欣也・成田三樹夫・金子信雄・千葉真一
   梶芽衣子
(ほか)

■視聴する⇒映画「仁義なき戦い・広島死闘篇」予告篇 

 昭和二十五年、朝鮮戦争の影響で軍需産業が好況な頃、広島で一人のアウトローが暴力社会に
デビューした。山中正治(北大路欣也)である。
 山中は、広島の大衆食堂で、大友連合会会長・大友長次の実子、大友勝利(千葉真一)率いる愚連隊軍団とトラブルになり、集団リンチにあい半殺しの目にあったところを村岡組組長・村岡常夫の姪、靖子(梶芽衣子)に助けられ、それが縁となり、村岡組の若衆となった。
 この山中正治、「マーケットでワシにコミ合ったヤツら全員、殺ったろう思いますけん。極道にさしてつかあさい」と、なかなかのヤクザ根性を披露してくれる。その心意気を買った村岡組長・村岡常夫は山中を引き入れたのだ。
 一方、広島にヤクザはふたつも入らんと主張する大友勝利は、村岡組の壊滅を計画する。そこで手始めに村岡組が興業の場としている広島の競輪場のトイレにダイナマイトを仕掛けたりとの暴れっぷり。しかし、大友連合会はあくまで「神農道」であり博徒ではないと主張する大友長次は村岡組との平和な関係を望み、それに徹底して反発する大友勝利は、ついに破門される。
 が、即座に大友勝利は愚連隊仲間を動員して博徒・大友組を結成。広島市内に賭場を開く。
 それを知った村岡組は大友勝利に即刻、賭場をたたむように命令するが、なんと大友組の後見人として登場したのは村岡常夫の舎弟・時森勘市であった。
 そこで村岡常夫は自分の舎弟である時森に絶縁状を突き付け、広島では今後一切、渡世はできないゾという意を露わにした。これを重く見た時森は大友勝利に相談を持ちかけるも、大友はその絶縁状を破り捨て、「こっちからも絶縁状出しゃあ、ええじゃないの!」という始末。
 そこで起こったのが大友組による村岡組襲撃事件。大友勝利は愚連隊を総動員して、村岡組の道場に殴りこみをかけたのだ。
 この殴りこみ、本気で組長の首を獲りに来ましたと言わんばかりであり、敵も味方も入り乱れてショットガンや日本刀が交錯する大銃撃戦が村岡組事務所内で展開する。ここで村岡組と大友勝利の率いる大友組の呉・広島第一次抗争勃発となったのである。

 そんな頃、戦争で夫を亡くしている靖子と、山中はいつしか恋に落ちたが、元来、好戦的な性質と戦争に行き遅れ、死に損ねた男の沸々とした精神を暴力に開花さしたこともあって、メキメキ頭角を現し、たちまち殺人マシーンと化す。
 その山中に時森勘市・襲撃命令が出た。命を狙われていることを知った時森は、山守組組長・山守義雄(金子信雄)を頼って呉に逃げてくる。山守は時森の保護を広能昌三(菅原文太)に任せた。 
 そんな広能のもとに刑務所時代からの知り合いでもあった山中が訪ねて来て、村岡組と対立する大友組に関与している時森勘市を受け渡して欲しいという。しかし広島に血の雨が降る危惧の念を抱えていた広能としては村岡組組長・村岡常夫への義理もあり、時森を広島に送り出すからそっちで
ケジメを就けるように示唆する。
 ところが、時森を広島に移送中、大友勝利の隠れ家で足止めを喰らう広能のもとに山守から電話が入る。その内容を勝利に知られ、起こった勝利に銃撃されるも間一髪で脱出し、広能は時森を自分の組の若者に射殺させてケジメをつける。
 時森の死によって村岡組と平和協定を結ぼうとする大友連合会の手打ちとなり、抗争は終結したかにみえた。しかし、あの暴君・大友勝利だけは、まだまだ打倒村岡組に執念を燃やし、野望達成のために密かに広島に襲撃部隊3人を残す。これを察知した村岡組は山中にそのアジトに潜む3人もろともマグナム銃でもって射殺させてしまうのだった。
 しかし山中は、この直後に警察に、あえなく御用となり無期懲役となるのだが、刑務所内で作業中に隠し持っていた注射器で採血した血を口にふくみ、吐血したと見せ掛け、病院に運ばれる途中に脱走する。

 その頃、勝利一派は村岡組組員を無人島で拉致してショットガンやライフルの的にして射殺
そしてまたもや村岡組組長襲撃に乗り出す。広島駅前で大友組と村岡組の撃ち合いが繰り広げられる中、一般市民を流れ弾に当てて重傷を負わすなどの惨事。大友勝利は村岡組をブッ潰す姿勢をエスカレートさせて最高潮の盛り上がりである。
 しかし脱走して、勝利のアジトを突き止めた山中に狙撃されて、一命は取りとめたものの足に大怪我を負う。
 一連の過激な勝利の行動に付いていけなくなった大友組幹部の中原敬介は、もはやこれまでと、村岡組若頭・松永弘(成田三樹夫)に和解交渉を託すが、なんてグッドタイミングなことか、
その頃、勝利の命をうけた大友組組員が村岡組の興業の場である売春宿を襲撃!wwwwwww
当然、和解交渉は決裂となり、哀れ中原敬介、村岡組の刺客に葬られてしまうのであった。
ここでようやく大友勝利一派は一連の襲撃事件はもとより、警察に逮捕となったのだった。

 そして山中正治も拳銃を持ったまま逃走中であり、雨の降りしきる街を憤怒の形相のごとく歩いているのを警官に発見され、街の廃屋に篭城。もはや自首したところで死刑は明々白々であることを知った山中は、自ら銃口を己の口に押し込んで、そのまま発砲。警官隊の包囲の中、自決してしまうのである。組長の野望の下で荒みきった殺人マシーンの凄絶な最期であった。

 山中正治の葬儀に焼香する広能を揶揄するように、山守が山中を「男の中の男」と評する。それを受けて参列する長老たちも賛同するが、山中の葬儀の奥の間で村岡組長らは、葬儀そっちのけで接客にいそしんでいる。そんな様子を見た広能は、なんともやり切れない思いになるのであった。

「山中正治は戦後派ヤクザの典型として、今でもその名が語り継がれている。しかし今、彼の墓を訪れる者は誰一人いない。
こうした若者の死を積み重ねて、広島ヤクザの抗争はさらに激しく苛烈なものへとなっていくのだった・・!」



―――――――――――――――――――――――――――――――――――


以上、『仁義なき戦い・広島死闘篇』 糸冬。

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『仁義なき戦い』第一部~広島ヤクザ流血25年の記録
「昭和二一年、呉。敗戦後、すでに一年。戦争という大きな暴力こそ消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が渦巻き、人々がその無法に立ち向かうには、自らの力に頼る他はなかった。」


『仁義なき戦い』(1973年)


「おどれの手はもう汚れとるんじゃ。黙って早よ殺れや・・!」

出演:菅原文太・松方弘樹・梅宮辰夫・金子信雄・渡瀬恒彦(ほか)

■視聴する⇒仁義なき戦い・予告篇

 物語のオープニングは広島に投下された原子爆弾の映像から始まる。
これから始まるであろう流血の抗争を思わせるがごとく、原爆の閃光から百八つの餓狼の霊が広島県下に飛び散ったのだ。
 そして昭和二一年。広島県・呉。敗戦という現実をなかなか受けとめる事ができない復員兵・広能昌三(ひろの・しょうぞう)は、沸々とした日々を送っていた。
そんなある日、友人の山方新一が土建屋・山守組のトラブルに巻き込まれ負傷する。そして広能は行きがかり上、加害者の旅人を射殺してしまう。
 旅人殺しで刑務所送りとなり、懲役十二年を余儀なくされた広能昌三は獄中、呉の不良の憧れの的・若杉寛と兄弟分になる。この若杉は当時、呉一帯に勢力を誇る土居組の若頭であり、若杉の斡旋で山守組組長・山守義雄から保釈金を捻出させ、めでたく釈放。広能は山守組の一員として極道人生の始まりとなった。
 そんなある日、広能は山守組が仕切る博打場で愚連隊あがりの上田透とトラブルを起こし、上田が呉の顔役・大久保憲一の縁者ということから指をつめる羽目になる。
実際はコレ全て大久保の仕組んだ策略で、山守組は上田組と共に大久保の傘下に組み込まれ、反・土居連合の一翼を担うこととなった。その手始めとして公共事業の利権獲得を狙った市会議員の拉致拘束に打って出るが、これが土居組組長・土居清にばれてしまったから、さあ大変。
若杉の必死の仲裁で双方の全面衝突こそ避けられたものの、以後山守組は土居組に圧力を掛けまくられる結果となった。また、土居清の逆鱗に触れた若杉も、山守組の一員として土居清殺害計画へと引きずり込まれていく。
 その刺客として選び出された広能は、広島の村岡組に滞在中に土居組長を襲撃!しかし、老獪な山守の策略もあり、哀れ広能昌三、服役生活へ逆戻りとなった。

 広能の服役中、山守組は若頭の坂井鉄也が台頭し、それに反発する新開、矢野といった幹部たちとの内部対立が表面化する。なかでも新開の舎弟・有田俊雄は実力行使を決行、旧土居組残党と手を結び、その秘事をつかんだ山守組幹部・山方新一を殺害、さらに坂井の盟友である上田組組長・上田透をも倒す。これに激怒した坂井は新開一派と旧土居組残党の殲滅に乗り出した。
服役中の広能をのぞいた山守組内で坂井派と新開派との血で血を洗う内部抗争の火蓋が斬って落とされた。結果、坂井は新開一派を撃ち殺って山守組での実権を完全に掌握するのであった。

 その頃、広能は講和条約の恩赦からようやく塀の外に出られたが、迎えに来たのは子飼いの若者・岩見益夫と山守組幹部・矢野修司のたった二人。その矢野に連れられていった小料理屋で待っていたのは山守義雄。ここで広能は組長の山守義雄を押しのけて山守組内で実権を握る坂井鉄也を殺してほしいと頼まれる。
出所したら山守組には帰らず、兄貴分である若杉寛の元へ身を寄せようと考えていたが、その若杉も彼の服役中に、あることから警官隊と撃ち合いになり射殺されていたのだった。
 なんとも納得のいかない広能は殺された山方のアパートへ。そこで以外にも坂井とニアミスとなる。坂井は死んだ山方の女とネンゴロになっていた。広能は戦争の焼け跡から自分たちが山守組を結成したのはお互い殺しあうためではないと坂井に山守との和解を勧める。
 しかし、自分を広能に殺らせるという山守の計画に激怒した坂井は山守に引退を突き付け、自ら大新興業を設立。最後の反坂井派・矢野を射殺する。
その事件を四国で知った広能は山守組幹部・槇原からの呼び出しで急遽、呉に戻ったが、そこで待ち構えていたのが親分・山守義雄その人であった。再度、坂井暗殺を強要する山守に三行半を突き付けるも、自分の意志として坂井の暗殺を決意する広能。
 結局、広能の坂井襲撃はあえなく失敗するが、山守の指示ではなく自分自身の意志から刺客となったという広能の言葉を訝しがる坂井は、帰りの車から広能を解放する。
そして坂井、自らも単身車から降り、子供への土産をとオモチャ屋に入った瞬間、新たな刺客から後ろから銃撃され蜂の巣となって人形を握りしめたまま絶命してしくのであった。

 そして盛大な坂井の葬儀が行われる中、普段着のまま広能は焼香の場へ向かった。
坂井の無念と己の心情を拳銃にたくし、ヤクザ社会への虚しさと怒りを込めて、献花・香典・祭壇などを撃ち抜いていくのだった。
 騒然となる式場、参列者。そこにいた山守が「広能ッ、お前、腹くくった上でやっとるんかッ!」と恫喝。拳銃を持ったまま広能がここで発した台詞こそが、戦後日本映画史上超ド級の名調子


「山守さん、弾はまだ残っとるがよ」


これに返す言葉がない山守を尻目に、広能は坂井の式場をゆっくりゆっくりと後にするのだった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


以上、『仁義なき戦い・第一部』 糸冬。

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『仁義なき戦い・序章』
『仁義なき戦い・序章』

『仁義なき戦い』とは、なにか

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『仁義なき戦い』の成立は、"奇跡"というしかないだろう。
 あの山口組と一和会の四代目組長の座をめぐっての対立抗争、俗に言う「山一戦争」以前であれば、戦後直後から広島で勃発した日本暴力団史上最大の抗争事件の映画化である。
その抗争の中心人物であった美能幸三氏(みの・こうぞう)の「幻の手記」が中央公論社に渡り、元時事通信社記者によって週刊サンケイに渡り、飯干晃一の手によって世に出るのである。
 その後、昭和48年(1973年)に東映から映画化され、大ヒットを記録してシリーズ5作品、新シリーズとして3作品、番外編1作品が製作された。

この映画の製作は当時はまだ現役の組長であった美能氏の進退を巡って、また広島第三次抗争の渦中であった広島の状況から不可能とされていた。
 ここに、笠原和夫という脚本家がこの作品を担当することになり、新たな奇跡が生まれる。
映画化に対しては断固拒絶の姿勢を崩さない美能氏だったが、交渉に出向いた笠原と同じ海軍大竹連隊であったことを糸口に、その後なし崩し的に映画化へと進んでいく。
映画『仁義なき戦い』の誕生は、ひとりの東映専属ライターがキーマンとなったのだ。
笠原和夫はフィールドワークをベースとするシナリオライターで、美能氏はもとより、敵対関係にあった組長までの幅広い取材によって「手記・原作」だけでは読み取れない部分の肉付けを施して作品を仕上げたのであった。
その事実から、原作以上に実録に肉薄しているのが映画『仁義なき戦い』なのである。

 また、当時(1973年)の東映では異端的存在におかれていた深作欣二を監督に起用。その結果として、日本映画最高の群像劇が誕生したのである。

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~『仁義なき戦い』五部作年表~

『仁義なき戦い・第一部』 1973年・1月13日東映劇場公開

『仁義なき戦い・広島死闘篇』 1973年・4月28日東映劇場公開

『仁義なき戦い・代理戦争』 1973年9月25日東映劇場公開

『仁義なき戦い・頂上作戦』 1974年1月15日東映劇場公開

『仁義なき戦い・完結篇』 1974年6月29日東映劇場公開


さてさて、これまでグダグダ並べてきましたが、いよいよ『仁義』シリーズ5作品一挙連載公開であります。

乞ご期待!いやむしろ交互奇体!(してくれるかな('ー')



「仁義なき戦い・五部作」を連載する前に。
いよいよ夏本番ということで、なにか暑さをカッっとばす企画やら、しなければならないと思いましてですね。私はヤクザ映画が好きなんですが、そもそもヤクザ映画ってのは二つに別けられるんですよ。
それは「任侠路線」「実録路線」ということになります。
「任侠映画」ってのは、よくある図式でいえば、時代は明治~大正~昭和初期が多く、老舗のヤクザが新興ヤクザに嫌がらせを受け、最初はグッと耐えているものの、だんだん嫌がらせがエスカレートしていき、仲間を傷つけられた時点で、今まで我慢していたモノが一気に噴出し、東映任侠スターであり老舗ヤクザの高倉健さんなり、鶴田浩二さんがドスをかまえて敵の組に殴り込みをかけるというわけです。言うなれば「任侠」の言葉にそのままあやかって「強きをくじき、弱きを助ける」という
勧善懲悪が「任侠映画」なのです。

対する「実録ヤクザ映画」というのは「任侠」といった極道社会にあるはずのものが全く出てこない。ヤクザの実態とは、こんなものなのか、という風に、欲望と裏切りと背徳が渦巻き、義理や人情も微塵もない血みどろの抗争劇の中で、組織にあやつられ、最後は捨てらるという若者ヤクザたちの無惨な青春群像劇。これが「実録ヤクザ映画」の主体であります。

その「任侠路線」「実録路線」。どちらが先に世の中に出回ったかというと、言わずもかな前者のほうです。
東映ヤクザを1960年代前半~70年代初頭まで約10年にもわたって支えてきた「任侠映画」
70年代に入ると高度経済成長の後期であり、爆発的な発展を経験した日本人は1973年の
石油危機で戦後初めて大きな挫折を味わった。またその前年にはあの連合赤軍事件が起こっている。

そんな混乱と混沌の中で、現代社会(70年代当時)の不安をよそに封切られたのが映画

「仁義なき戦い」であります。「任侠映画」が10年にもわたって世の中に通じていたなら、「実録ヤクザ映画」の寿命はたったの4年。
その差はやはり製作の難しさゆえんであろう。なにせ実際の暴力団同士の抗争を描いているのですから、そうそう続けられるほど時代は甘くはなかったというこです。
さて「仁義なき戦い」を日切りに以後は続々とバリエーションに富んだ実録ヤクザ映画が公開されていきました。「仁義」に負けず劣らず傑作・怪作はあるのですが、やはり東映実録ヤクザ映画・第一弾として確固たる地位を築いた名作なので、私は「仁義なき戦い・五部作」の連載開始を決意した次第であります。

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